私は毒母に育てられました。
毒母と言っても今思えばそれも良い思い出なのかもしれませんが、最近までは本当に、本当につらい事ばかりでしたよ。
そんな私の毒母のお話。
まとめるのが下手くそなんですっごく長いです。ごめんなさい。。
幼少期にはっきりと気が付いた
私にとっては凄く毒母ではあったのですが、兄にとってはとっても優しい自慢の母親だったんです。
なので誰も私が言う事なんで信じてくれませんし、毒母であるなんて思ってなかったでしょうね。
父親が出て行ってからが酷かった
母親に半ば強制的に父親が追い出されました。
4歳と言う年齢だった私の記憶にはっきりと残っているので衝撃的だったんでしょうね・・・
家のなかで唯一のみかただった父親がいなくなったのでほんっと大変でしたよ。
私の意見は何も通らない
未だにそうですが、私ネギ類が苦手なです。玉ねぎとかネギね。
幼少期も食べられなくて嘔吐を繰り返していたんです。
嘔吐したら殴られます・・・
そしてまた口に無理やり押し込まれまた嘔吐し殴られると言う繰り返しです。
「食べられない」と言っても聞いてもらえず何日も続きました。
多分、4~5日経った頃でしょうか。兄が「もうやめてあげたら」と言ったら終わりました。
これがトラウマになって今でもたべられません。(情けない)
個性は押さえつけられました
当時はまだ絵をかいたりするのが好きでした。
一生懸命書いた絵を母に見せると「みんなと同じように書きなさい」と言われました。
私はただ、郵便ポストが青かったらカワイイな~と思って書いただけなのに、人と違うからやめなさい!
ポストは赤いでしょ!なんで青く塗るの!見た通りに書けないなら絵なんてかくな!ときたもんです。
私の中で夢の世界を作る事がいけない事なのだと植え付けられその後絵は描かなくなりました。
お陰様で今でも絵が書けません・・・
デフォルメキャラとか好きなのに、それを書こうとすると当時を思い出してちょっと手が震えます。
4歳から家事は当たり前
父親がいなくなったので大黒柱は母に変わります。
最初のころはもちろんお米を研いだり洗濯物を取り込んで畳む程度でしたが、4~5歳児のお手伝いではありませんでした。
誰も見てくれる人がいない中で、手の届かない所にある炊飯器を取り出したり、脚立を使ってベランダの洗濯物を取り込むんです。
団地の5階にすんでいて、そのベランダに幼稚園児が脚立に上って洗濯物を取り込む姿を考えてみてください。
恐怖すぎます・・・
小学1年生で完全に家事を任される
朝起きてみんなの朝食を用意し、学校行く前に洗濯を済ませ、冷蔵庫チェックをして晩御飯の献立を考える。
これを小学1年生にやらせる母とかなんなんでしょうね・・・
母子家庭だから仕方がないと言われてましたが、私が選んで母子家庭になったわけではない!と反論したら殴られて蹴られました・・・
挙句の果てに毎日毎日「こんなくそまずい物が食えるか!」とごみ箱に捨てられたり、責任をもって全部食べろと言われたり。
お風呂掃除はしたけどお風呂を沸かすの忘れてたら殴られたり・・・
兎に角母は家事を完璧にこなしてない事に苛立ち、私を殴る蹴る。
夕食後にはすぐにパチンコに行くようなそんな母でした。
知らないおじさんがやってきた
今思えばと言うか・・・普通に母親の彼氏ですね。
母の優先度はおじさん>兄>母親自身と変わりました・・・
私は何もかわらず家事を任され友達と遊ぶ時間もほんの少ししかなく、友達作りができずにいました。
母親の言う事を聞かなければ暴力をふるわれるし、このころの私は母に愛されたいと願っていたんで一生懸命母の言う事を聞くしか方法をしりませんでした。
おじさんのために買い物にいかされたり、兄のお弁当を作らさせられたり、私に自由はないまま中学生になりました。
中学生時代に決定的な事件が起きる
詳しく書く事はできませんが・・・
中学時代は私自身が崩壊していきましたね。
まぁよく生きていたな、私って感じです。
クラスメイトに万引きを命令した事にされた
ロクに友達付き合いもしないですし、中学時代はもう「人なんて信用できるか」と思っていたんで友達ができるわけもありません。
そんな時に同じクラスの子が万引きで捕まったらしく、なんの恨みをかったのか「ころさんにやれって言われた」と言ったそうです。
学校から呼び出され、先生には殴られ説教され、親に報告されて親からも殴られ蹴られ・・・
もう抵抗するだけ無駄な状況だったので謝って終わらせてしまいました。
同級生数名から暴行を受ける
中学1年生も終わった春休み。
私は同級生数名からいわゆるその・・・いけない意味での暴行を受けました。
暴行自体悪い事ですが、女性なら恐怖しかない暴行の方ですね。
それがなぜだか学校中に広まり先生の耳に入り、親の耳に入りました。
私は誰にも言えずに毎日ただ恐怖しかなかったので、先生の耳に入った事を知った時は正直ほっとしました。
あぁ、これで救われるかもしれない・・・と思ったのは無駄でした。
母が先生に放った一言
「そう言う行為はこの子がそうしたいと思わないとできない行為だから謝ってもらわなくて良い」
耳を疑いました。
いくら毒親でも救ってくれるだろうと信じていたのに、この有様です。
決定的です。
母親ですらこんな事を言うのか?
じゃあ血のつながりがない人なんてもっと酷いんだろうな・・・
人なんてこの世からいなくなれば良いのに。
高校時代
私は親に育てられる事を拒絶しました。
しかしたかだか16歳の小娘です。なんにも一人ではできないんですよね・・・
衣食住は今まで通り母親に面倒を見てもらいましたが、学費、家電代、途中からはポケベル代(時代を感じる)学校の制服など自分で払うようになりました。
学校に関わるお金は高いです
制服や教科書、やれ遠足だ修学旅行だとお金はかかる一方です。
それらをまかなうために私はバイトに明け暮れました。
1年間はなんとかなりましたが、修学旅行代の集金が始まった2年生。
今までのバイトだけでは足りなくなったのでさらにバイトをふやします。
案の定授業にはついていけず出席日数はたりなくなり留年が決定しました。
この時母親には学校をやめるようにと言われましたよ。
世間体ってやつですかね?
しかしこの時私は初めて反抗しました。
だって私のお金で学校言ってるのに親にとやかく言われる筋合いはない!と思ったからです。
そんな訳で2度目の2年生が決定。
学生と言う名のステータスを思う存分使っていました。
3年生になるもバイトだらけで授業日数足らず・・・
3年の2学期には留年が決定するぐらい出席日数がたりませんでした。
もう1年行くか?と思いましたが学生のステータスも飽きてきたし、学校の事気にせずに働けばお金がもっと稼げる!
と思い学生ステータスのままバイト三昧で楽しみました。
退学届けを提出したのは3年生の3学期。
みんなが卒業する同じ日付で無事退学となり、私の最終学歴は中卒と言う事になりました。
親にはボロカスに言われましたけどね・・・
好きに言ってろ!って感じですね。
なんだかんだで結婚して21歳で実家を出れた
実家から出るためだけに結婚しました。
相手がどんな人だろうがどうでも良かったんです・・・
結婚と同時に仕事をやめる
が、旦那は借金まみれの人でした(汗)
そんな旦那の給料をあてにしたのがうちの母親。
母:給料日でしょ?お金貸してよ!
私:旦那に相談してからな
母:私が貸せって言ってるのになぜ旦那に相談するの?
私:私のお金じゃないからです。私は旦那に食べさせてもらってる身。そのお金をあなたに黙って貸す事はできません
母:・・・
この後我が家に怒鳴り込みに来て私は殴られる・・・
はぁ~って感じですよね。
旦那からの虐待が始まる
子供たちに対しての虐待が始まりました。
TVを見てる旦那にまとわりつく息子(当時8カ月ほど)
蹴られて畳みとの摩擦で顔が傷だらけになる。
仕事に行こうとする父親にまとわりついてぶっ飛ばされる。
助けに入った私は肋骨骨折する。。
子を守るために・・・と私は離婚しました。
そのころは九州に住んでいいたこともあり、京都に帰る事にしました。
が、結局頼ったのは母親でした。
まぁ母親がほとんど家にはかえってなかったみたいなので実家に帰る事にしたんです。
毒親再開
案の定毒親のままでした・・・
が、長男にだけはなぜか優しいおばあちゃんです。
次男と私だけはひどい扱いをうけてましたけども。
毒親の母親も毒親でした
祖母が独り身で入院。
家族がいないと家に帰せないと言う事になり、なぜだかわからないけど私まで神奈川に連れていかれました。
そのころは持病もあり1人で子供を育てていくのも大変だったんで、嫌々ではあるけれど神奈川に一緒についてきてしまいました。
昔から大嫌いなおばーちゃん
お年玉に500円とかをくれるおばーちゃん・・・
別に金額云々ではないんですが、ポチ袋にも入ってない500円を投げつけるように渡すおばーちゃんでした。
この親にしてこの子あり
納得できるぐらいに母親とおばーちゃんはそっくりでした。
私たちの部屋に勝手に入ってきてはカバンや洋服、現金までも盗んでいくおばーちゃん。
盗らないで!と言うと「ここは私の家だから私のものだ!」と言う。
追いかけて奪い返そうとすると「たすけてー!ころされるー!!」と大声で叫びだす。
こんなおばーちゃんと毒母に囲まれた生活のお陰で円形脱毛症になってしまった私。
500円玉ハゲが8つほどできあがりました。
そんな生活が続くなかで出会ったのが彼でした
心のよりどころでもあり、唯一心を許せる存在となった彼ですが・・・
結局そんな彼も7年後に私の元を去るんですけどね。
このころに息子の事件があり引っ越す事になりました。
毒祖母がガンで亡くなり、後を追うかの如く毒母が他界
2人して入院生活を送っていたんですが、2人とも病院が違ったために私はてんやわんやです。
あっちの病院によびだされ、こっちの病院によびだされ、持病の病院にも通わないといけない・・・
そんな生活が半年ほど続いた時、祖母が他界しました。
入院中の母の代わりに手続き色々
最終的には母の兄、叔父にすべて任せましたが毒母の事は結局私に任せられました。
色んな手続きを母の代わりにやり、これで一安心と思っていたころに母親の彼氏がでしゃばってきたんです。
最後まできっちり面倒を見るならと言う条件で母親の事をすべて託しました。
まぁこの彼氏も問題児?だったのでできるだけ会いたくない人でしたね。
やっと母親から解放された生活を送る事1年程。
母親が他界しました。
母親はクモ膜下出血で倒れ、後遺症などと戦いながら、ほとんど食事を食べられないままに亡くなったそうです。
本当の意味での毒親からの解放
私は亡くなった母に会っていません。
遺骨になった母にも会っていません。
ちゃんとした連絡もないまま葬儀などは終わらせたようなので、母が亡くなる半年前に弱った母の姿を見たのが最後です。
そして今現在、私は母の遺骨がどこにあるのかも知りません。
やっとすべての毒から解放されました
母も祖母も、母の彼氏からも解放され、やっと自由になれた気がしました。
やっと私は自分の人生を歩める。
やっと誰にも邪魔されずに自由に生きれる。
やっと何事にもおびえる事なく彼と向き合える。
やっと彼との未来を心底考える事ができる。
私にとってはやっと自分の時間と言う物を手に入れた瞬間でもありました。
この時すでに私は40歳。
辛かった40年がやっと終わりました。
彼までも手放す事になって思った事
天涯孤独を実感した今、私は大嫌いだった毒親に会いたいと思った。
何故私はこんなに厳しく育てられていたのか?
何故私にもっと色々教えてくれなかったのか?
何故もっと愛してくれなかったのか?
それともあれが母の愛だったのか?
どうやって他人と関われば良いのか?
どうすれば人を信じられるようになるのか?
聞きたい事が山ほどある。
山ほどあるのに何一つ答えてはくれないあなたはやっぱり最後まで毒親のままなんですか?
あんなに大嫌いだった母親なのに
私は今とてもあなたに会いたいです。